あのころのわたくし
〜第3回しゃくなげ杯の事〜
(2002/10/24)


 
 いつまでも下手だトホホだと泣いていられない。2週間後には年に一度のビッグイベント、しゃくなげ杯である。何度か紹介したが、しゃくなげ杯は取引先の日本全○工業株式会社という会社が主催してくれるコンペで、毎年50人程度の出席がある大きな大会である。

 思えば、私が始めてコンペと名が付くモノに出席させてもらったのが3年前(99年)の第3回しゃくなげ杯であった。その年、ハーフで45を何度か切っていた私は、恐れ多くも80台を狙い、あわよくばダブルペリアで優勝だと、とんでもない思い上がりで望んだのだった。

 そして、諸先輩方が見つめる中、緊張のスタートホールの第1打は・・・・チョロ。フェアウェイすぐ横のブッシュへ。みんなの失笑が聞こえてくる。穴があったら入りたいとはまさにこの事か。顔から火が出るような恥ずかしさの中、ブッシュから球を拾い、逃げるようにフェアウェイへ走る。しかし、悲劇はそこで終わらなかった。

 プレーイング4からの打ちなおし、またチョロ。あたかもライフルで狙撃されるが如く、ティ-グラウンドからの蔑みと哀れみの視線を背中で受けながら、私はティーオフ後3分で完全に鬱の世界に入っていた。このホール、6オン2パットのトリプル(パー5)。

 4番パー3では8、9番パー4では9を叩き(何故そんなに叩いたのか全く覚えていない。嫌な事を忘れようとする人間の習性だろう)、前半は55であった。なーにが80台か。全くお笑いである。もしその時の自分が今目の前にいるなら、恐らく正座させて小1時間は説教しているだろう。

 後半もダボ・ダボ・ダボ・ボギー・ボギー・ダボ・パー・ダボ・トリプル・ボギーで51。まさにトホホ。結局、106という酷い、しかしその当時で言えば平均的なスコアであった。

 これを期に、私のごるふ狂いはさらに加速して行くのであるが、思えばトホホの芽もこの頃からしっかり出ていたと今振り返ってみればはっきり判るのであった。


編者注:しゃくなげ杯は、私にとって特別な思い入れがある。
他人はそんな事どーでも良いとも思うのであるが、こういうトホホな
エピソードは喜んでいただけると確信している。何故なら、私も
他人のトホホなラウンドリポートは大好きだからである。