編者紹介

2014/9 更新


著者近影
(彦根市に許可取ってません)

名前 hiro
コンタクトはこちらへどうぞ)
住所 大阪府(京阪沿線)
性別 オス
年齢 1963年生まれ
身長・体重 165cm・7?kg
特性 体・・・結構柔らかい
運動神経・・・普通?
運動歴・・・卓球部(中学時代)
力・・・普通
HS 43-45m/s(ドライバー)
職業 珍しい「し」業
座右の銘 「がんばらない」
性格 軽度ADHD
ゴルフ暦 初めてコースに出たのは12歳
本格的に狂い出したのは35歳
ホームコース きさいちカントリークラブ(大阪府)
お気に入り フレッド・カプルスのスウィング
坂田信弘の理論
伊沢利光のしたたかさ
キャロウェイのクラブ
真芯に当たったドライバーショット
ミドルアイアンでのパーオン
グリーンでブレーキが掛かるアプローチ
一緒にラウンドしてくれる妻



ウェブ開設にあたり

 初めての出会いは藤子不二夫氏の「プロゴルファー猿」という漫画であったように思う。
この世にゴルフというスポーツが存在し、そしてそれが「カッコイイモノ」であると本能
的に察知したのは小学校4-5年生の頃だったか。

 棒切れの先に三角形の廃材を釘で打ちつけ、父親の使い古したボールを持って公園で
打ってみたり(2-3度打っただけでヘッドが飛んで行ったが)、毎週のように父親が持ち
帰るスコアカードを宝物のように集め、未来の自分のラウンドを想像したりもしていた。

 その頃世の中は高度成長期に突入し、青木、尾崎、中島のAONが活躍する第二次
ゴルフブームの真っ只中にあった。土曜深夜のゴルフ番組でジャック・ニクラウスの勇
姿に見惚れ、訳も解らずチンバックを真似てシャドースウィングをしていた。

 何度か練習場に通うようになり、そこそこ球を打てるようになって、初めてショートコース
に連れて行ってもらったのは小学校6年の時だった。母親はその日の為にレモンイエロー
のスラックス
(爆)を買ってくれた。しかし、そんなスラックスをはいたからと言ってもちろん
まともに打てるわけが無く、殆ど全てのショットがチョロかトップだったように記憶している。
それでも、ゴルフが大好きだった。

 高校2年のとき、父親が関西ジュニア選手権大会に申し込んでくれた。忘れもしない、
瀬田ゴルフコースでの開催だった。周囲は高校ゴルフ部の猛者ばかりで、私のような
おのぼりさん気分で大会に臨む人間はごく少数だったと記憶している。ラウンド中、
私のあまりの下手さにあきれたのか、ひどいつま先下がりのライから打ちあぐねてい
る私のボールを一人のプレイヤーがひょいと拾い上げてフェアウェイに投げ込んだり
もした。その時は親切からしてくれたのだと思ったが、今思えば私の足手まといさに
相当腹を立てていたのだと思う。そんなこんなでスコアは126、下から5番目ぐらい
の成績だった。

 大学在学中から5年ほど前までは、年に1-2度ぐらいのペースでラウンドし、110前後の
スコアで回っていた。ハーフで50を切ったのが27歳の頃だろうか。しかし、なかなか
100は切れなかった。

 初めて100を切ったのは、4年ほど前、34歳の頃だったと思う。仕事を始め、多少余裕が
出てきて年に4-5回ラウンドできるようになってからだった。その頃から、妻も本格的に
ラウンドするようになり、練習場通いが日常化していく事となる。

 3年前(1999年)の秋からは、月に1度はラウンドしないと気が狂いそうになるところまで
病気が進行していた。この頃いつも回っていたのがライバルN君、同業の大先輩のSさん
などであり、3人とも100前後で実力が伯仲していたため、毎回とても盛り上がるラウンド
になった。

 この頃の一番の悩みは、メンバーが揃わないと言う点であった。我々夫婦は月2回でも
3回でも行きたい。しかしN君もSさんも多忙であり、おいそれとは誘えない。エントリーに
関してはインターネットによるエントリー代行が十分活用できるレベルまで
充実してきていたので困らなかったが、それでも2サムで回れるところは少数
だった。とにかくゴルフがしたい。ラウンドしたい。それも好きな時に。もう、我々夫婦の
ゴルフ病は来る所まで来てしまっていた。

 そんなある日、毎週欠かさず買っていたゴルフ雑誌の会員権の広告のコピーに私の
目は釘付けになった。そこには、「もうは、まだなり。まだは、もうなり」と書かれてあ
った。まだ会員権購入は早いと思っていた私はこれを天啓として受け止め、無理をして
会員権を買うことにした。もちろん、妻も賛成してくれた。

 そして、去年の6月、ついにきさいちCCの会員権を手に入れた。探し始めてから3ヶ月が
経過していた。とてつもなく長く感じられた3ヶ月だった。皮肉なことに、購入してすぐ、
父親が自分の持つわかさCCを譲ってくれると言ってくれた。私は天啓が間違っていなか
った事を悟った。

 それからは憑かれたように毎週木曜日になると妻とラウンドするようになった。もう、週に
1度ラウンドしないと生きていけない体になっていた。多くを犠牲にしてゴルフに打ち込む
ようになった。スコアは全てエクセルに落とし、そしてそのデータはドライバーの飛距離、
ナイスショット指数、アプローチのリカバリー率、各種グラフとどんどん増殖して行った。

 しかし、これだけで終わりではなかった。このデータでもっと遊びたい。活用したい。もっと
ゴルフに関わっていたい。その思いが頂点に達した時、ついに私はホームページを作る
事を決断した。誰のためでもなく、自分の為にゴルフに関わる思いやラウンド結果をウェブ
という形態で書き記そう。自分自身が一番楽しめ、喜べるようなページを作ろう。

 それがこのウェブを立ち上げた動機である。